日大と私
日大と私
20180529追記
結局、日大フェニックスは最大1年間の出場停止であり、再発防止策さえ作文すれば、すぐにでもリーグ戦に出場できることとなった。
社会的制裁を受けた監督には何をしても社会が許してくれるだろうという関東学生連盟の意図が見え見えのポピュリズムだと言える。
20180527追記
日大フェニックスが無期限の出場停止になったという報を受け、記述を加えた。
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高校2年の10月に受験勉強を始めるきっかけになったことから話そう。
高校は工業地帯にあり、ターミナル駅を経由して一駅先だった。
授業が終わり掃除当番でない日には、最寄駅には行かず、直接ターミナル駅まで、その工業地帯の汚れた空気の中を20分ほどかけてマラソンし、快速に乗って帰るというのがルーチンだった。
新設校だったその高校に入学するまで、小学校、中学校と予習も復習もテスト勉強すらもしたことがなかった。
学習することに対するモチベーションをもつチャンスに恵まれなかったのである。
興味を引くように授業をしてくれた教師として記憶に残っているのは、通常授業を中断し「彦一凧」と呼ばれる凧を竹ひごと紙で作って、凧あげさせてくれた小3の担任の猿田先生で、その後はそうした教師には出会わなかったし、逆に敵対することの方が多かった。
小5、掃除中に見つかった検便容器が誰のものかという事件があった。
級長だった児童が、私の机の引き出しから落ちたと主張し、何故か放課後に居残りさせられ、本当のことを言いなさいと女性教師に毎日問い詰められた。
放課後、手洗い場で泣いた顔を洗っていた私を見つけた学年主任の田中先生に理由を話したら、翌日からは居残りさせられることはなくなった。
高2、古文を暗記し暗唱するよう課題が出たことがあった。
私は意味を感じないことをするのは大嫌いなのでボイコットしたら、1000回ノートに書いて提出するよう言われ、一晩中かけて汚い字で1000回書いて提出した。
高2の秋、担当教師が休みで騒がしい教室に乗り込んで一喝してくれたのが今野先生で、将来を考えるきっかけをくれた。
その日から、受験勉強を始めた。
その日から1年半、帰ったら夕食まで勉強し、食事してお風呂に入ったらまた机に向かった。午前12時ごろまで勉強していた。
土曜も日曜も勉強に当てた。
家庭教師や予備校には行かず、ひたすら独学の日々だった。
英語は中学1年から高校2年まで5年分の教科書を復習した。
現代国語、漢文、古文、政治経済は、全く手をつけてさえいなかった進研ゼミのテキスト2年分の問題を繰り返し解いた。
直近の赤本も何度も繰り返し解いた。
この18ヶ月にわたる受験勉強は、私に努力すれば報われるのだということを初体験させてくれた。
2月中旬に合格発表があり、その後卒業式準備の頃まで高校へは行かなかった。
合格後、久しぶりに高校に行ったとき、1年次の担任であった赤木先生から「コツコツとやってきたことが報われましたね。」とねぎらってもらえてとても嬉しかった。
達成感と開放感に包まれ幸せだったが、受験勉強が終わってしまったことが寂しく、もっと勉強し続けたいと思えた。
その後の国家認定プログラマ試験にパスすることができたのも、この時に努力ぐせを付けられたおかげである。
日大法学部は難易度が55ほどだったが、その高校から現役合格したのは私一人だけだった。
その理由がわかったのは、入学式を終え、友達になった4人から話を聞いた時だった。
「高校はどこ?」
「県立高校だけど、君は?」
「神奈川の付属校だよ」
「俺は福島の付属校」
「私は宮崎の付属校です」
4人のうち実に3人が付属校からのエスカレータだった。
学生に占める一般入試合格者の割合は25%。一般入試で合格するのが難しいわけだ。
付属校の3年間で数百万円投資して、「日大学生」という肩書きを買うわけだ。
1年次の大宮校舎のキャンパス脇では、日大フェニックスの赤いジャージがキャッチボール練習してるのをよく見かけた。
法学部のある三崎町では、旧本部を改造した図書館があった。
大理石づくりで、歴史を感じることのできる図書館で過ごす時間が大好きだった。
法学書や好きな戯曲を読み漁った。
図書館の静かな雰囲気と独特の匂いが好きだった。
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篠竹監督時代の日大フェニックスを一度だけ、千葉マリンスタジアムで観戦したことがあった。
日大フェニックスはいつでも大差で勝っていた。
2017年秋、日大フェニックスは学生日本一になった。
私が応援しはじめてから、初めての甲子園ボウル優勝だったので、とても嬉しかった。
新聞テレビで、監督もコーチも選手も大いに賞賛された。
2018年5月、毎日のように日大は世の中の人々から叩かれている。
大好きな日大がバッシングされている光景は見たくない。
おそらく、フェニックスは今年度の関東リーグ戦に出場できないだろう。
学長の話を聞く限り、選手の意向第一にチームを再編するというから、映画マイフェニックスで菅原文太が演じた人、篠竹監督に「それでいい。」と言ってもらえるチームに生まれ変わってほしい。
篠竹監督は、山口県を毎年合宿地とし、フェニックス選手に日大を興した山田顕義の墓掃除を年一回必ず行わせていたが、今でも行なっているのだろうか。
いつの日か、不死鳥のように躍動する真っ赤なジャージを再び目にすることができるのを楽しみにしている。
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