6年前の震災の記憶
6年前の3月、いつもの地震かなと思うか思わないかの間にこれまでにない横揺れで部屋の照明が大きく揺れ、天井に当たりそうになるのを左手で止めながら、右手はテーブルを押さえていた。
いくつかの食器が床に落ちた。
事務所に据え置いてあるものが横滑りし動いた。
玄関の天使像が倒れて二つに折れた。
その頃まだ見ていたテレビという情報受信装置には太平洋側が赤く塗られた日本列島が映っていた。
この時には、宮城県で起きたあの悲惨な大津波が起きていることは知らなかった。
その数日後に福島県の原子炉が3つも連続爆発するなどとは思いもよらなかった。
事務所の屋上から周りを眺めたが、何も変わった様子はなかった。
「そんな大した被害はないようだな」
と思った。
震度は5強。
私がこれまで体験した地震で一番大きな震度の値だった。
どのくらいの長い間、テレビのブラウン管を見つめていたか分からないが、宮城県で大きな津波が起きて大変なことになっていることを知った。
福島県の原子炉に電気が送電できない状態だということも知った。
その頃よく行っていた近くの量販店が倒壊し二人の方が亡くなったことを知った。
そして、原子炉が次々と爆発し始めた。
NHKでは、こう放送で呼びかけていた。
「原子炉燃料が溶融した可能性があります。」
「自宅の窓は閉じてください。」
「不要不急の外出は控えてください。」
「外から自宅に戻る際には玄関前で体をはたいてから家の中に入ってください。」
内閣官房は、国民にこう呼びかけた。
「原子炉は安定に向かって作業を行なっています。ただちに健康に影響が出ることはありません。」
爆発した原子炉にパックリと開いた穴めがけて、自衛隊のヘリコプタが散水を行った。
東京の消防庁から持って行った大型の放水車から原子炉にパックリと開いた穴めがけて放水を行った。
それらを英雄視した報道が続いた。
スーパに買い出しに行くと、中は真っ暗で、食料品の棚には商品はほとんど残っていなかった。
お米も小麦粉もお餅もお菓子も牛乳もなかった。
かろうじて食パンが数きん残っていたので、それを買った。
私のおばあちゃんは折に触れ、関東大震災や太平洋戦争の話をしてくれた。
「これが大災害時の社会なのだな」
と感じた。
間もなく、東京電力による計画停電が始まった。
アプリを作ることもできず、ひたすらテレビからの情報を待った。
大好きなコーヒーも何週間も飲めなかった。
4月になると、計画停電も終わった。
スーパではまだ節電をしていて暗かった。
福島県に自分としてのできる限りの額の義援金を振り込んだ。
5月に毎年ボランティアで行なっているお祭りの会場に、福島から避難して来た人が何人かきていた。
この頃からマスクを年中つける人が増えた。
人々は次第に何事もなかったように普通の暮らしを始めた。
ここ南大沢では、前述の量販店が倒壊した被害以外は、遊歩道がところどころひび割れるくらいの軽い被害だったけれど、6年経ったいまでも、暗くて棚が空っぽのスーパがいつも頭に残っている。
あれから6年なんとか生きてこれたことを感謝したい。
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