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邪馬台国連邦の場所 三国志 魏志倭人伝の新解釈の提示 十二のポイント

三国志 魏志倭人伝 の新解釈の提示

2016/05/09

「邪馬台国」という30カ国の連邦が、日本のどこにあったのか議論になっているが、次に掲げるポイントから九州の東岸、宮崎県の日向が邪馬台国であったことがわかったので、ここに提示するものである。

ここでは、古代遺跡がたまたま発見されたからどうだとか、地名の音が似通っているからという根拠の薄いことがらは考慮していない。

東京都民である私が「ここだったらいいな」など恣意的な検討を排除し、魏志倭人伝に記されている方位と距離のみから邪馬台国の位置を求めるものである。

古代には関門海峡は船が通過することができなかったということを知ったことで、「魏志倭人伝で説明されている邪馬台国までの旅程はなぜ北部九州で船を降り、その後徒歩で目的地に向かったのか」という疑問が氷解する大きなきっかけとなったのだ。(ポイント八を参照)

------ 追記はじめ

2017/11/26

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)

ポイント三で述べている基準距離(千里=100km)とすると、倭国の大きさ「五千餘里」は、九州(宮崎県)から近畿(奈良県)までが倭国(邪馬台国連邦)であったことと一致する。

次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王(魏志倭人伝)

奴國は複数回出てくるが、ここでいう「奴国」は邪馬台国の東の端にある国なので、関西(近畿)地方にある国と比定される。

その奴国の南にある「卑弥弓呼」が治める国「狗奴國」は東海地区の三重県周辺に比定される。

自郡至女王國 萬二千餘里(魏志倭人伝)

朝鮮半島中部の帯方郡(現在のソウル市周辺に比定)から邪馬台国までの海運距離「萬二千餘里」はポイント三で述べている基準距離(千里=100km)とすると、ソウルから宮崎県日向の距離と一致する。

魏志倭人伝の記述からみる邪馬台国連邦

倭人在帶方東南大海之中〜(魏志倭人伝)

<九州島以外の島国>

3カ国(狗邪韓国(朝鮮半島南端)、対馬、壱岐)

<邪馬台国の北側>に

4カ国(筑紫、豊、肥)

<邪馬台国の南側>に

1カ国(薩摩)

と、邪馬台国を含め九州島に6カ国があり、

其餘旁國遠絶、不可得詳〜(魏志倭人伝)

<邪馬台国の遠方東側>(山陰道、山陽道、南海道、畿内など)に

21カ国

<邪馬台国の東側国々の内訳>

中国に約6カ国

四国島に約6カ国

関西(近畿)に約6カ国

と比定される。

------ 追記おわり

魏志倭人伝の新解釈 邪馬台国の位置

ポイント一

伊都国から先の記述は国々の説明書きであって、邪馬台国までの行程(道順)を記したものではない。

その理由は「陸行」という行動を表す文字がなく、単に方角と距離を述べているにすぎないためである。

(新解釈での行程)

対馬→壱岐島→末廬國(北九州・福岡県)→伊都国(中津・大分県)→邪馬台国

ポイント二

投と殺は草書体が同じ、現存する写本の写し間違い。

これまでの定説で投馬国とされていた国名は殺馬国が正しい。現在の鹿児島県西部にあたる。

(参考)

草書体で解く 邪馬台国の謎 書道家が読む魏志倭人伝

ポイント三

対馬北端と壱岐島北端の間の距離をおよそ1000里の基準距離とする。

なぜ北端かというと、南端を基準点とすると対馬南端と壱岐島南端との距離は、対馬の南端と朝鮮半島までの距離に届かない。

対馬と朝鮮半島の距離が1000里を超える距離になり魏志倭人伝の記述と適合しない。

ガレー船は2ノット(時速3キロ)なのでおよそ3日かかる距離である。(交代要員を含め1日10時間漕いだとき)

基準距離(対馬北端から壱岐島北端の距離)100km ÷ 1000里 ≒ 魏志倭人伝の1里は100m(0.1km)となる。

ポイント四

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。

の解釈は、「伊都国から邪馬台国までは船でも歩いても行ける。船を使えば10日かかり、あるいは陸で行く場合にはひと月かかる」という意味である。

(参考)

決定版 邪馬台国 その2 陸行1月 3/3

http://youtu.be/tWi-VNhy1Hw

ポイント五

不弥国までは距離を示しているが、以降の国々は日数で記している。

これは、作者が参考にした資料では、投馬国と邪馬台国には実際に行っておらず、伊都国人から聴取した日数を記述しているだけなのだ。(伊都国人は里などの距離単位を使っていないことが分かっている)

作者(陳寿)が参考にした資料は、政治的使者のそれではない。外国(朝鮮)から交易をするためにやって来ている人々は邪馬台国連邦の中の朝鮮により近い交易都市に赴くのであって、首都(邪馬台国)に行く必要性はないのである。

ポイント六

壱岐島から九州のどこに渡ったかについては、対馬海流を考慮に入れれば、当時の簡易帆船(動力は櫂による手漕ぎガレー船)では真南より東に船を進めることのほうが容易である。(九州西部は壱岐島経由での交易のための通常のルートにはなりえない。当然、南シナなど南方との交易の中心は長崎である。)

そのため、壱岐島から南東に1000里の地に船をつけたのである。

ポイント七

九州中央部の山間部を通らずに歩を進めるには、記述された方角を基にすると九州東部沿岸を進んだことが考えられる。

九州西部沿岸(佐賀、長崎方面)では東南に進むのは九州中央部の山に阻まれるため地形上難しい。

ポイント八

壱岐島から九州北西部に船をつけて末廬國についたと仮定すると、東南の伊都国以降に進むためには、陸行で行く必要はなく船を乗り続けて(佐賀→熊本→鹿児島と)進めばよいのに、わざわざ九州北西部で船を降りる必要性がないのである。

魏志倭人伝の記載からみて、九州の東部沿岸に目的地があることが強くうかがえる。

現在、日本海から九州東部に船で進むことのできる「関門海峡」を外国人(朝鮮)が不知だった。もしくは、古代には船は通ることができなかった可能性が高い。

(参考)古事記伝(本居宣長)

「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」

古代史探訪 関門海峡は陸だったのか より引用

http://enkieden.exblog.jp/21575406/

「上代には此処長門と豊前とつづきたる山にて、その下に洞ありて、東西通り潮の通う道ありて、船も往来しらむ故、穴戸とは云うなるべし。」

小倉郷土史学 小倉郷土会 1982 より引用

http://www.kiteyone.net/hayawakari/kanmonrekisi/kanmonnona.htm

ポイント九

古代人は現代人よりもある意味頭が良いので、太陽の位置や北極星で的確につかむことのできる基本のきである、東西南北の方位を間違えることはありえないのである。

従って、九州以外の地(奈良県や四国)に連邦の中心国家たる邪馬台国があったことは考えの外である。

ポイント十

九州への上陸地点と距離単位がわかれば、自ずと邪馬台国の位置がわかるのである。

中津(伊都国)から日向(邪馬台国)までの距離 250km ÷ 行程30日 ÷ 毎日5時間歩く ÷ 60分 ≒ 分速30m前後

\*高低勾配は考慮していない。

ポイント十一

作者(陳寿)が参考にした資料は何度も日本と交易していた帯方郡(朝鮮)の資料を参考にしているため、方位や距離は極めて正確であることがわかる。

ポイント十二

古代において、距離(里)が正確にわかるはずない。魏志倭人伝の距離の記述は適当に書いているだけと考えている現代人は多いだろう。

しかし、太陽と月の高度を六分儀や人間の腕などで計測することにより現在地を正確に地図上にプロットできるのだ。

ウィキペディア 天測航法 より

https://ja.wikipedia.org/wiki/天測航法

-

-

以下に魏志倭人伝に記されている旅程を説明する。

対馬から海を1000余里

九州北部にある壱岐島から海を1000余里

\*対馬北端と壱岐島北端の間の距離をおよそ1000里の基準距離とする

末廬國

北九州

(福岡県)

東南に陸行500里

伊都国

中津

(大分県)

*この後記述される国々への説明起点となる。

伊都國から先の記述は国々の説明書きであって、邪馬台国までの行程を記したものではない。(作者が参考にした資料には伊都国人から聴取した内容が記述されていたのである。)

理由は「陸行」という行動を表す文字がなく、単に方角と距離を述べているにすぎないため。

東南に100里

奴国

別府

(大分県)

-

伊都国

東へ100里

不弥国

豊後高田

(大分県)

-

伊都国

南へ水行20日

投馬国 殺馬国

薩摩

\*投と殺は草書体が同じ、写し間違い

鹿児島県西部

-

伊都国

南に水行10日

あるいは陸行で行くと1か月

卑弥呼の都のある邪馬台国

日向

(宮崎県)

-

wikipediaより、三国志 魏志倭人伝 従来の定説

又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。

また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

-

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居る。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。

-

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。

-

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。

-

南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

-

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

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